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ショピニアーナについて

「ショピニアーナ」は後に「レ・シルフィード」と改題されましたが、別の作品に「ラ・シルフィード」という別の作品がありますので、わかりやすいように「ショピニアーナ」として紹介します。

「ショピニアーナ」はその名の通りショパンのピアノ曲集を組み合わせ、バレエの為にオーケストラバージョンにアレンジしたものです。

初演は1907年、ロシアのマリンスキー劇場で初演されました。その後振付師、フォーキンが改訂を重ね1909年、パリで成功を収め現在の形になりました。

前回のブログに書いた「眠れる森の美女」は,「クラシックバレエの父」と言われる振付師プティパにより1890年に初演されたので、その約20年後に確立された作品になります。
フォーキンはプティパによって確立された「グラン・パ・ドゥドゥ」などのクラシックバレエの型に不満を持ち、無駄な物語を排除し、短い作品でありながら優れた物語性を持つ「瀕死の白鳥」「ショピニアーナ」などの抽象バレエを発表しました。

彼のデビュー作「瀕死の白鳥」はアンナ・パブロワを代表する作品として大変有名な作品となりましたね。
瀕死の白鳥はたった3分ほどの作品なのに、多くの人の心を揺り動かす素晴らしい作品として現在もさまざまなプリマ・バレリーナによって踊り継がれています。(男性の踊るパロディーバージョンも同じくらいとても有名ですが!)
しかしながらパブロワは9歳のころ母親に連れられて、フォーキンの嫌いだったプティパの作った「眠れる森の美女」を観てダンサーを志しました。
プティパの「眠れる森の美女」を観てバレエを初めたパブロワが、プティパの作品に不満を持つフォーキンの作品を踊り有名になる、不思議な関係ですね。

パブロワはプティパに才能を認められ頭角を現し、プティパの改訂版、「ジゼル」で成功をおさめ、1907年、フォーキン振りつけの「瀕死の白鳥」を踊り一躍スターになりました。
その当時看板ダンサーだったパブロワと、男性舞踊手ニジンスキーによって1909年パリで踊られた「ショピニアーナ」でこの作品は成功を収めるのです。
この二人の人物はバレエ史において欠かせない伝説的な二人で、舞台で奇跡や怪奇現象などを観たという文献も残っており、わたしもタイムスリップできるならこの時代の二人の踊りを生で観てみたいものです。
ニジンスキーにおいては舞台の袖から反対の袖まで一つのグランジャンプで飛び越えてしまったなんて逸話もあり(どんだけ狭いステージ?!)
パブロワも、彼女が踊りだすと聞こえないはずの鳥のさえずりが聞こえてきた、湖が本当に見えた、などの幻覚、幻聴が観客に起きたそうです。
その後1922年にパブロワは日本に来日し、全国8か所で公演しました。このアンナ・パブロワともう一人のエリアナ・パブロワ(彼女は日本に亡命してバレエを日本に広めることに・・・)により日本にバレエが広まっていきます。

 

話が脱線してきたので本題に戻りますが・・・

「シルフィード」とは「シルフ」風(大気)の精の女性形です。
またそのシルフはラテン語で「森の精」とも言われます。
シルフィードはトンボのような薄い2対の羽で空を飛びます。
その空気のような羽で空に巨大で芸術的な雲を作り出すことができるとも。
風のように自由に空を飛び回り、
さらに風と同化しているため、その姿は透明で人間には見ることができず、
形は人間に似るが魂がなく、
人間の愛を得てようやく人間と同じ不滅の魂を得る・・・
説によってはシルフィードは人間と妖精の間に生まれた女性のような生き物だともいわれています。

 

ロマンティックバレエの代表作と言われる「ラ・シルフィード」は1832年に初演、
「ショピニアーナ」の80年ほど前、ロマン主義時代に作られ、そのときに妖精の軽さを出すためにポワントシューズ(トウシューズ)というものが初めて使用されました。

その後ロマンティックバレエ時代からクラシックバレエ時代(プティパのような現代のバレエ様式)を経て
ネオクラシックバレエと言われる時代に突入しますが、
当時のロマンティックバレエの古典的な味わいを残し、またロマン主義の時代のショパンの曲を使いつつも、
いままでになかった物語性のない抽象的な作品を目指したのがフォーキンの「ショピニアーナ」となります。

森の奥深くに迷い込んだ詩人が月明りの下でシルフィードと共に踊る、それだけの作品ですがロマンティックバレエの優雅さを堪能させる作風でコールドバレエ(群舞)の美しさも見どころとなっています。

次回は動画を通して、この作品の表現や技術について書いてみたいと思います。

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